「嫌われた監督」を読んで、中日ファンとして考えたこと

「嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか」を読んだ。

12人の球団関係者にインタビューした内容を基に、12人+スポーツ紙の記者である筆者から見たそれぞれの落合像が描かれている。落合中日の内情を描いているノンフィクションだが、それだけではなく、落合監督就任当初は”末席”の記者であり、上司に言われるがままに動くだけであった筆者が、落合監督への取材を通して一人の記者として成長していく過程も描かれている。

 

落合という人は、今さら言うまでもないが、人によって好き嫌い・賛否のはっきりと分かれる人だ。中でもマスコミ関係者からは「嫌われ」ることが多かったのではないだろうか。年を追うごとに情報統制が厳しくなり、囲み取材でも真偽が分からないような人を食ったようなコメントが多かったため、記者泣かせだったのは間違いないだろう。しかし、本書の中で突然自邸に訪れた筆者に対して取材に応じているエピソードがあり、そこには落合の別の一面が描かれていた。

「お前、ひとりか?」「俺はひとりで来る奴には喋るよ」

「これはお前に喋ったことだ。誰か他の記者に伝えるような真似はするなよ。お前がひとりで聞いたことだ」

これらの発言から、落合は取材する側の記者に対してもプロフェッショナルな姿勢を求めていたのではないかと感じた。囲み取材に参加していれば他の記者がした質問に対する回答も含めて記事にできる、漠然とした内容の質問であっても取材対象が「汲み取って」記事のネタになるような回答を返してくれる、そのような関係を良しとしなかったのではないだろうか。”末席”の記者に甘んじていた時代の筆者のように惰性で仕事に取り組むのではなく、伝えるべきネタである野球をまずはしっかりと観察し、取材すべき相手・内容を自分の頭で考え、必要であれば一人であっても積極的に取材対象にアプローチする。そのような主体性を求めていたのではないだろうか。「他の記者に伝えるような真似はするなよ」という発言からも、プロは食うか食われるか、簡単に自分の獲物である取材したネタを他人に渡すな、という落合のプロフェッショナル観が見受けられる。

余談にはなるが、このような姿勢は、星野監督時代にサービス精神旺盛な監督と朝食やお茶を共にし、監督と持ちつ持たれつの蜜月関係を続けてきた記者にとっては受け容れがたいものだったのかもしれない。

記者という仕事は取材対象から話を聞きだす必要があるため、ある程度対象と良い人間関係を保っておく必要があるのは分かるが、それによって事実がゆがめられたり、過度に私情が入り込むことはあってはならないと思う。落合監督時代のマスコミは「ファンに対しての情報提供」を盾に、あたかも自分の私情がファンの総意であるかの様に落合批判を展開してはいなかっただろうか。個人的には選手のケガの情報や明日の先発投手が発表されなくても、試合に勝ってくれれば満足だったが、そのようなファンも一定数はいたのではないだろうか。中京圏の大物アナウンサーやOB解説者などで、明らかに私情を挟んで批判ばかりしている人などもおり、悲しい気持ちになった記憶がある。

 

一方でファンの間では、プロ野球チームに対して何を求めるかというスタンスの違いによって、落合に対する評価・好き嫌いが分かれていた様に思う。「ロマン」や「派手さ」があれば最悪10年に1度の優勝でも満足、という人は堅実な落合野球を嫌っていただろうし、「勝つことが最大のファンサービス」という理念に共感していた人は落合を評価していたと思う。自分はどうだっただろうか。97年のナゴヤドーム元年から25年間ドラゴンズファンを続けているが、ファンとしての自分が落合政権前後でどのような心境の変化があったか振り返ってみることにした。

 

中日ドラゴンズというチームをはっきりと応援し始めたのは97年だった。弱い地方球団というイメージだったが、父親の影響で試合を見るようになった。関東圏に住んでいたため、メディアで目にするのは星野仙一がほとんどであった。巨人戦になると一際闘志を燃やし、喜怒哀楽の激しい星野監督に惹き付けられた。ファンになったきっかけは明らかに派手な星野野球だった。

98年になると、今までの”恐竜打線”を中心とした戦い方から、投手力・機動力を中心とした野球へのモデルチェンジが進み、恐竜打線の象徴であった大豊やパウエルはチームを去り、関川、久慈、李鍾範といった機動力のある選手が加入。チームカラーがガラッと変わり、最下位から2位に躍進した。この年に定着した投手中心の守り勝つ野球というチームカラーは程度の差こそあれ、基本的には現在まで変わっていない。

リーグ優勝を果たした99年は愛知県に引越したこともあり、ドラゴンズにますますのめり込んだ年だった。夜は中日戦の中継を観戦し、翌日の朝刊でチームの勝敗や個人成績をチェック、土日はドラゴンズ情報番組をはしごする日常。月600円と多くはない小遣いの中から400円の月刊ドラゴンズを毎月買うようになったのもこの頃だし、星野監督公式Webサイトも欠かさずチェックしていた。部屋の壁にはサイト上のコンテンツであるQ&Aに質問が採用された特典としてもらった星野のサイン入り色紙が飾られていた。小学生だから許されるような稚拙な質問をしたのにも関わらず、丁寧に回答してくれた星野に対して更に惹き付けられた。

その様な星野に対する狂信的な気持ちが揺らいだのは2001年のオフだった。2001年限りで中日監督を退任した星野が阪神の監督に就任することが発表されたのだ。

正直裏切られた気持ちだった。中日監督の後任は99年に星野が外部から招へいした山田コーチと決まっていたが、外様の山田監督に対し星野は裏からバックアップすることを約束したと報じられていたからだ。バックアップどころか同リーグの敵チームの監督に就任する星野に対する熱は急激に冷めていった。山田監督は島野二軍監督まで星野阪神に引き抜かれ、当初の想定とは違う監督生活を送ることとなった。

外様監督にとってはやりずらい環境だったと思うが、山田中日は優勝からは程遠かったものの惜しい戦いを見せてくれていた。川上や福留が一皮むけ、谷繁が加入し、アライバが台頭してきたのもこのころだ。後年の黄金時代を支える選手たちがそろい始め、来年こそは優勝争いができる、そう感じていた2003年オフに山田監督が突然解任された。前年5位のチームを立て直しつつある外様監督に対する球団の仕打ちに納得ができなかった。長年の中日ファンである父親も「もう中日新聞は買わない」と怒りを露わにしていたし、自分もどこか冷めたような気持ちになった。

そのタイミングで中日の新監督に就任したのが落合だった。「現有戦力を10%底上げすれば優勝できる」と豪語する落合は、当時の自分にとっては「金にモノを言わせて」勝利を目指す星野や巨人とは対照的に見え、球団に対する冷めた気持ちもいつしかどこかへ消えていた。最終的にチームは落合の言葉通りリーグ優勝を達成し、常人と異なるアプローチで世間を驚かす落合中日に熱狂するようになった。

落合中日は強かった。強かったが、次第に感情が無くなっていき周囲との壁を厚くする落合に対して、応援はしていたが心のどこかに若干のつまらなさが無かったとは言い切れない。セサルや李炳圭という中途半端な実力の外国人の重用や世代交代が進まずに”加齢でファイト”とネット上で揶揄される高齢化した野手陣に対して疑問も感じ始めていた。中日の選手が日本代表に誰一人いない2009年のWBCで、その理由は理解しつつも若干の寂しさも感じた。

僕は次第に落合政権はそろそろ終わるべきではないかと考えるようになった。派手なパ・リーグの野球にセ・リーグが押され始めたのもそう考えるようになった理由の一つかもしれない。バレンタインやヒルマンといった外国人監督が活躍していたこともあり、元中日のモッカの様な外国人に監督をしてもらい雰囲気を変えるのも一案ではないかと感じていた。

長期化する落合政権に対する風当たりが強くなる中で、落合監督は2010年、2011年と球団史上誰も成しえなかったリーグ連覇を達成して監督を退任した。「打てなくても、投手が0点に抑えれば負けない」という落合が掲げた理念を体現化したチームは究極形となっており、2011年は統一球の影響で投高打低のシーズンではあったが、チーム打率は12球団最下位の.228であるのに対し、チーム防御率セ・リーグトップの2.46だった。打力のあるチームと当たっても1-0や2-0のロースコアゲームに持ち込む試合運びはいつしか「中日ペース」と呼ばれ、打てないのに負ける気もしないという不思議な感覚だった。日本シリーズでは第7戦で敗れて日本一を逃したが、戦前の下馬評を覆し、強豪ソフトバンクに対して途中まで「中日ペース」に持ち込んだ。落合が8年間で作り上げたチームの凄みを改めて感じた。

落合の後任監督はミスタードラゴンズ高木守道だった。球団はファンサービス重視、OB中心の組閣で落合色の一掃をしようとしているのは明らかだった。チームは世代交代がうまくいかずいつしかBクラスの常連になっていた。落合がGMとして球団に復帰し、黄金時代を支えた谷繁が監督になった年には、また強いドラゴンズが見られると期待したが、落合は監督時代とは異なり徹底的なコスト削減を是としており、GMと監督で確執が表面化するなどチーム強化はうまくいかなかった。

 

こうして振り返ってみると、自分がファンになって3年目でリーグ優勝したこともあり、優勝争いは当たり前という感覚は間違いなくあった。99年に優勝してからは勝ちきれないチームにもどかしく思っていたこともあり、その何かが足りないチームを常勝軍団に鍛え上げた落合に対しては救世主の様にも感じていた。落合政権後半は「常勝」に加えて「フレッシュさ」も求めていた時期もあったが、その後の暗黒期で「常勝」を失って落合監督のすごさを改めて感じた。やはり自分は「勝つことが最大のファンサービス」という落合の理念にかなり共感しているのだと思う。第2次星野→山田→落合時代は投手力を中心としたチーム作りで、安定して上位に入っていた時代であり、中日という球団は元々はそのような安定感のあるチームではない。"恐竜打線"を前面に押し出し、不確実性がありつつも勝つときは派手な野球をしていた中日を応援していたファンとは中日ドラゴンズに求めるものが若干異なるのかもしれない。

 

強いドラゴンズが弱体化していく過程で、気が付いたことがいくつかある。

1つ目は中日新聞という親会社にはプロ野球球団にかけられる金はほとんどないということだ。

星野は巨人に負けじと積極的な補強をしていたし、落合時代も主力選手の年俸は高額な方であったが、本来の中日新聞社は金のかかるプロ野球球団に潤沢な資金を出せる企業では決してないと思う。いくら大手企業で中部地方を牛耳っている新聞社とはいえ、業態を考えると成長の見込める企業でもないし、経営も決して楽ではないだろう。落合が監督のクビを切られた理由も落合がGMに就任した理由も球団にかかるコストを削減するためだった。当然の話ではあるが、基本的には球団は独立して採算を取れるような、身の丈に合った経営が求められているのだろう。

2つ目は常勝チームを作るのには金がかかる、ということだ。

97年から2012年までの16年間で、中日がBクラスに落ちたのは2回しかない。そのうち2002年から11年連続でAクラスになっている。同時期(97年以降)の巨人でも10年連続が最長なことを考えると誇るべき数字だと思う。これは球団から補強費を引き出すのがうまく、毎年のようにFA戦線に参戦していた星野と、全権を与えられ、裏方スタッフも含め必要な人件費には糸目をつけなかった落合の功績に他ならないと思う。星野や巨人に対して、子供のころは「金にモノを言わせて」いると感じていたが、必要な補強に十分な金をかけることは、常勝チームを作るために避けては通れないことであることは、今ならよくわかる。

3つ目は中日球団は金がかかる常勝チームを望んでいない、ということだ。

「嫌われた監督」に次のような記載がある

「十年に一度くらい優勝すれば、名古屋のファンはそれを肴にして次の歓喜を待つことができる。ただ、次こそは次こそはと、歓喜を夢想できればそれで幸せではないかという思いがどこかにあった」

上記は落合監督時代に打撃コーチを務めた宇野勝の回想だが、多くの球団幹部は同じような考えを持っているのではないだろうか。「嫌われた監督」にも記載があったが、星野以降の中日監督の年俸は優勝やAクラス入りを達成すると、その度に額が上がるようになっていたらしい。常勝チームであれば破綻するような、裏を返せば定期的にBクラスに落ちて監督が交代することを前提とした条件にも見受けられる。

親会社が新聞社であることを考えると、試合やペナントレースが盛り上がって新聞やチケットが多く売れることが一番好ましい。そのためには必ずしも結末が「勝利」である必要はなく、その過程にある物語性やロマンの方が重視されているのではないだろうか。物語を盛り上げるためには「敗北」するシーズンも必要だし、たまの「勝利」の方が盛り上がりが大きい、という思想なのだろう。

 

昨年オフの契約更改の席で、福谷に「この球団にビジョンはあるのか」と問われて「今はない」と球団が答えたことが話題になった。通常の民間企業であれば経営理念や経営計画があり、それに沿って社員全員が同じ方向を向いて自分の仕事に邁進するのがあるべき姿だが、中日球団にはその方向性が無いということになる。黒字経営が大前提にあるとして、強かった時代の様に毎年日本一を目指していくのか、それとも「物語性」「派手さ」を重視して、極端な言い方をすれば勝利は二の次というスタンスでチーム作りをするのか、今一度再考する必要があるのではないだろうか(後者であるとはっきり言われたらファンをやめてしまうかもしれないが)。そしてかつて落合監督が要求したプロフェッショナルであるという意識を、現場のユニホーム組、球団スタッフ、球団幹部一人ひとりが持ち、球団一丸となって同じ目標に向かって邁進するチームであってほしいと感じた。