拠り所

先日、GRAPEVINEの田中さんが文學界に寄稿した文章が高校の国語教科書に採用されたとのニュースがあった。下記に全文公開されているが、読んでない人は長文でもないので是非一度読んでもらいたい。

自分は読書量もあまり多くなく、多種多様な文章に触れてきている訳ではないが、そのような人間でもするすると読める。それでいて文章に余韻があり、現代文の設問になりそうな部分もあるので、教科書に採用されたことも確かに納得できる。

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この文章を紹介したのは、文章自体が素晴らしかったことも理由の一つだが、下記の部分に非常に共感したからである。

どうにも苦手な風潮も渦巻いている。こういう非常時には必ず多くのアーティストやアスリートらが「勇気を与えたい」「聴いた(観た)人を元気にさせたい」と一様に口を揃えて発信するのだ。

全く同様の事を自分も感じており、インタビュー等で誘導されて流れでその様な受け答えをするアスリートはまだ良いが、自発的に「受け手のために」という点を強調して作品を押し出してくるアーティストは苦手だな、と感じていた。

苦手なアーティストの曲を敢えて聞く必要もないので、そのような曲は避けて生きてきたが、最近結婚した奥さんの好きなアーティストが正に「受け手のために」を全面に押し出してくるタイプのバンドであり、やむを得ずライブ映像を横目で見たりという機会が発生するようになってきた。

ワンマンライブの映像を一緒に見たこともあるが、ボーカルがMCで長髪を振り乱しながら「あなたたちのために!」と煽るたびに奥さんは涙し、自分はと言うとその主張の強さに横で見ていて冷めてしまっていた。

ひねくれた物言いをすると、ここで言う「あなた」はあくまでも聴き手の最大公約数の「あなた」でしかなく、本当に自分のことを歌ってくれている訳でもないのに押し付けがましいと感じてしまうのだ。また、作品に共感する「あなた」を広げようとすると基本的にはわかりやすい作品になりがちであり、自分がそのようなストレートな作品を好まないことも冷めてしまう原因かもしれない。

とは言え、奥さんはこのアーティストによって少なからず心が救われていることは確かだろうし、いわゆる宗教の様なモノなのかもしれない。一方でこのアーティストに対しては冷めている自分も、気がついていないだけで他のアーティスト、又は他の趣味等が心の拠り所になっているのは間違いなく、人は無宗教であっても宗教の代わりになるようなものが必要なのかもしれない。

無宗教を公言している日本人は6割程度いるらしいが、宗教的な存在が不要になったわけではなく、昔は宗教が担っていた人々の心の拠り所が他の概念・作品等に代わってきているのだろうな、と感じた。