拠り所

先日、GRAPEVINEの田中さんが文學界に寄稿した文章が高校の国語教科書に採用されたとのニュースがあった。下記に全文公開されているが、読んでない人は長文でもないので是非一度読んでもらいたい。

自分は読書量もあまり多くなく、多種多様な文章に触れてきている訳ではないが、そのような人間でもするすると読める。それでいて文章に余韻があり、現代文の設問になりそうな部分もあるので、教科書に採用されたことも確かに納得できる。

books.bunshun.jp

この文章を紹介したのは、文章自体が素晴らしかったことも理由の一つだが、下記の部分に非常に共感したからである。

どうにも苦手な風潮も渦巻いている。こういう非常時には必ず多くのアーティストやアスリートらが「勇気を与えたい」「聴いた(観た)人を元気にさせたい」と一様に口を揃えて発信するのだ。

全く同様の事を自分も感じており、インタビュー等で誘導されて流れでその様な受け答えをするアスリートはまだ良いが、自発的に「受け手のために」という点を強調して作品を押し出してくるアーティストは苦手だな、と感じていた。

苦手なアーティストの曲を敢えて聞く必要もないので、そのような曲は避けて生きてきたが、最近結婚した奥さんの好きなアーティストが正に「受け手のために」を全面に押し出してくるタイプのバンドであり、やむを得ずライブ映像を横目で見たりという機会が発生するようになってきた。

ワンマンライブの映像を一緒に見たこともあるが、ボーカルがMCで長髪を振り乱しながら「あなたたちのために!」と煽るたびに奥さんは涙し、自分はと言うとその主張の強さに横で見ていて冷めてしまっていた。

ひねくれた物言いをすると、ここで言う「あなた」はあくまでも聴き手の最大公約数の「あなた」でしかなく、本当に自分のことを歌ってくれている訳でもないのに押し付けがましいと感じてしまうのだ。また、作品に共感する「あなた」を広げようとすると基本的にはわかりやすい作品になりがちであり、自分がそのようなストレートな作品を好まないことも冷めてしまう原因かもしれない。

とは言え、奥さんはこのアーティストによって少なからず心が救われていることは確かだろうし、いわゆる宗教の様なモノなのかもしれない。一方でこのアーティストに対しては冷めている自分も、気がついていないだけで他のアーティスト、又は他の趣味等が心の拠り所になっているのは間違いなく、人は無宗教であっても宗教の代わりになるようなものが必要なのかもしれない。

無宗教を公言している日本人は6割程度いるらしいが、宗教的な存在が不要になったわけではなく、昔は宗教が担っていた人々の心の拠り所が他の概念・作品等に代わってきているのだろうな、と感じた。

おかえりモネが完結した

NHK朝ドラの「おかえりモネ」が完結した。東日本大震災後の東北地方を舞台に選んだ挑戦的な作品だ。

序盤で主人公の百音とその幼馴染が登場した時に、正直不安がよぎった。「現代がテーマ」「男女数人の幼馴染」という要素が、伝説の朝ドラ「まれ」を思い起こさせたからだ。

「まれ」は、夢ばかり追いかけている父親を反面教師として「まじめにこつこつ」をモットーとしている主人公が、目指すべき夢を見つけてそれに向かって邁進する物語だ。ただ、次第に当初の主人公のキャラ設定からはずれた行動が目立ち始め、最終的には「まじめ」でも「こつこつ」でもなくなる、という悪い意味でアバンギャルドな脚本であった。父親役として大泉洋が出ていたのがきっかけで見始めたのだが、大泉洋への興味もこの脚本の前にはかすんでしまい、水曜どうでしょう好きの友人と「まれ」へのツッコミをツマミに飲みにいくことが日常になっていた (それはそれで楽しいもので、文句を言いながらも全話鑑賞してしまった)。完結後も話題には事欠かず、主要登場人物のうち1名が新興宗教の広告塔となり、1名が性的暴行で逮捕されたことで再放送が難しくなり、名実ともに伝説の朝ドラとなった。

話が逸れてしまったが、「まれ」にも男女数人の幼馴染が登場しており、ドラマ全体としてコメディタッチのおふざけな雰囲気で脚本の意味不明さをカバーしていたため、被災地が舞台の「おかえりモネ」でこれをやられると舞台が舞台だけに笑いごとにならないな、と感じてしまったのだ。

ただ、この心配は杞憂に終わった。震災後10年をかけて登場人物がそれぞれの心の復興に向かっていく様がじっくりと描かれており、復興とは物理的なモノだけではないということを再確認させてくれた。

また、決して底抜けに明るいストーリーではなかったが、登米の人々や菅波先生のキャラクターによって和まされる場面もあり、毎週楽しく鑑賞することができた。特に菅波先生の不器用ながらもモネの自問自答を優しくガイドする様は非常に尊さがあった。

災害、特に近年発生したものをテーマとして扱う連ドラを作成するのは非常に神経を使うと思う。難しいテーマにもかかわらず、おかえりモネは1話目から最終話まで軸がぶれずに丁寧に物語が描かれており、1本の映画を見ているようでもあった。

このような番組が作れるのであればNHKはぶっ壊さなくても良いなと思った。(受信料はもうちょい安くしてほしいが)

「嫌われた監督」を読んで、中日ファンとして考えたこと

「嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか」を読んだ。

12人の球団関係者にインタビューした内容を基に、12人+スポーツ紙の記者である筆者から見たそれぞれの落合像が描かれている。落合中日の内情を描いているノンフィクションだが、それだけではなく、落合監督就任当初は”末席”の記者であり、上司に言われるがままに動くだけであった筆者が、落合監督への取材を通して一人の記者として成長していく過程も描かれている。

 

落合という人は、今さら言うまでもないが、人によって好き嫌い・賛否のはっきりと分かれる人だ。中でもマスコミ関係者からは「嫌われ」ることが多かったのではないだろうか。年を追うごとに情報統制が厳しくなり、囲み取材でも真偽が分からないような人を食ったようなコメントが多かったため、記者泣かせだったのは間違いないだろう。しかし、本書の中で突然自邸に訪れた筆者に対して取材に応じているエピソードがあり、そこには落合の別の一面が描かれていた。

「お前、ひとりか?」「俺はひとりで来る奴には喋るよ」

「これはお前に喋ったことだ。誰か他の記者に伝えるような真似はするなよ。お前がひとりで聞いたことだ」

これらの発言から、落合は取材する側の記者に対してもプロフェッショナルな姿勢を求めていたのではないかと感じた。囲み取材に参加していれば他の記者がした質問に対する回答も含めて記事にできる、漠然とした内容の質問であっても取材対象が「汲み取って」記事のネタになるような回答を返してくれる、そのような関係を良しとしなかったのではないだろうか。”末席”の記者に甘んじていた時代の筆者のように惰性で仕事に取り組むのではなく、伝えるべきネタである野球をまずはしっかりと観察し、取材すべき相手・内容を自分の頭で考え、必要であれば一人であっても積極的に取材対象にアプローチする。そのような主体性を求めていたのではないだろうか。「他の記者に伝えるような真似はするなよ」という発言からも、プロは食うか食われるか、簡単に自分の獲物である取材したネタを他人に渡すな、という落合のプロフェッショナル観が見受けられる。

余談にはなるが、このような姿勢は、星野監督時代にサービス精神旺盛な監督と朝食やお茶を共にし、監督と持ちつ持たれつの蜜月関係を続けてきた記者にとっては受け容れがたいものだったのかもしれない。

記者という仕事は取材対象から話を聞きだす必要があるため、ある程度対象と良い人間関係を保っておく必要があるのは分かるが、それによって事実がゆがめられたり、過度に私情が入り込むことはあってはならないと思う。落合監督時代のマスコミは「ファンに対しての情報提供」を盾に、あたかも自分の私情がファンの総意であるかの様に落合批判を展開してはいなかっただろうか。個人的には選手のケガの情報や明日の先発投手が発表されなくても、試合に勝ってくれれば満足だったが、そのようなファンも一定数はいたのではないだろうか。中京圏の大物アナウンサーやOB解説者などで、明らかに私情を挟んで批判ばかりしている人などもおり、悲しい気持ちになった記憶がある。

 

一方でファンの間では、プロ野球チームに対して何を求めるかというスタンスの違いによって、落合に対する評価・好き嫌いが分かれていた様に思う。「ロマン」や「派手さ」があれば最悪10年に1度の優勝でも満足、という人は堅実な落合野球を嫌っていただろうし、「勝つことが最大のファンサービス」という理念に共感していた人は落合を評価していたと思う。自分はどうだっただろうか。97年のナゴヤドーム元年から25年間ドラゴンズファンを続けているが、ファンとしての自分が落合政権前後でどのような心境の変化があったか振り返ってみることにした。

 

中日ドラゴンズというチームをはっきりと応援し始めたのは97年だった。弱い地方球団というイメージだったが、父親の影響で試合を見るようになった。関東圏に住んでいたため、メディアで目にするのは星野仙一がほとんどであった。巨人戦になると一際闘志を燃やし、喜怒哀楽の激しい星野監督に惹き付けられた。ファンになったきっかけは明らかに派手な星野野球だった。

98年になると、今までの”恐竜打線”を中心とした戦い方から、投手力・機動力を中心とした野球へのモデルチェンジが進み、恐竜打線の象徴であった大豊やパウエルはチームを去り、関川、久慈、李鍾範といった機動力のある選手が加入。チームカラーがガラッと変わり、最下位から2位に躍進した。この年に定着した投手中心の守り勝つ野球というチームカラーは程度の差こそあれ、基本的には現在まで変わっていない。

リーグ優勝を果たした99年は愛知県に引越したこともあり、ドラゴンズにますますのめり込んだ年だった。夜は中日戦の中継を観戦し、翌日の朝刊でチームの勝敗や個人成績をチェック、土日はドラゴンズ情報番組をはしごする日常。月600円と多くはない小遣いの中から400円の月刊ドラゴンズを毎月買うようになったのもこの頃だし、星野監督公式Webサイトも欠かさずチェックしていた。部屋の壁にはサイト上のコンテンツであるQ&Aに質問が採用された特典としてもらった星野のサイン入り色紙が飾られていた。小学生だから許されるような稚拙な質問をしたのにも関わらず、丁寧に回答してくれた星野に対して更に惹き付けられた。

その様な星野に対する狂信的な気持ちが揺らいだのは2001年のオフだった。2001年限りで中日監督を退任した星野が阪神の監督に就任することが発表されたのだ。

正直裏切られた気持ちだった。中日監督の後任は99年に星野が外部から招へいした山田コーチと決まっていたが、外様の山田監督に対し星野は裏からバックアップすることを約束したと報じられていたからだ。バックアップどころか同リーグの敵チームの監督に就任する星野に対する熱は急激に冷めていった。山田監督は島野二軍監督まで星野阪神に引き抜かれ、当初の想定とは違う監督生活を送ることとなった。

外様監督にとってはやりずらい環境だったと思うが、山田中日は優勝からは程遠かったものの惜しい戦いを見せてくれていた。川上や福留が一皮むけ、谷繁が加入し、アライバが台頭してきたのもこのころだ。後年の黄金時代を支える選手たちがそろい始め、来年こそは優勝争いができる、そう感じていた2003年オフに山田監督が突然解任された。前年5位のチームを立て直しつつある外様監督に対する球団の仕打ちに納得ができなかった。長年の中日ファンである父親も「もう中日新聞は買わない」と怒りを露わにしていたし、自分もどこか冷めたような気持ちになった。

そのタイミングで中日の新監督に就任したのが落合だった。「現有戦力を10%底上げすれば優勝できる」と豪語する落合は、当時の自分にとっては「金にモノを言わせて」勝利を目指す星野や巨人とは対照的に見え、球団に対する冷めた気持ちもいつしかどこかへ消えていた。最終的にチームは落合の言葉通りリーグ優勝を達成し、常人と異なるアプローチで世間を驚かす落合中日に熱狂するようになった。

落合中日は強かった。強かったが、次第に感情が無くなっていき周囲との壁を厚くする落合に対して、応援はしていたが心のどこかに若干のつまらなさが無かったとは言い切れない。セサルや李炳圭という中途半端な実力の外国人の重用や世代交代が進まずに”加齢でファイト”とネット上で揶揄される高齢化した野手陣に対して疑問も感じ始めていた。中日の選手が日本代表に誰一人いない2009年のWBCで、その理由は理解しつつも若干の寂しさも感じた。

僕は次第に落合政権はそろそろ終わるべきではないかと考えるようになった。派手なパ・リーグの野球にセ・リーグが押され始めたのもそう考えるようになった理由の一つかもしれない。バレンタインやヒルマンといった外国人監督が活躍していたこともあり、元中日のモッカの様な外国人に監督をしてもらい雰囲気を変えるのも一案ではないかと感じていた。

長期化する落合政権に対する風当たりが強くなる中で、落合監督は2010年、2011年と球団史上誰も成しえなかったリーグ連覇を達成して監督を退任した。「打てなくても、投手が0点に抑えれば負けない」という落合が掲げた理念を体現化したチームは究極形となっており、2011年は統一球の影響で投高打低のシーズンではあったが、チーム打率は12球団最下位の.228であるのに対し、チーム防御率セ・リーグトップの2.46だった。打力のあるチームと当たっても1-0や2-0のロースコアゲームに持ち込む試合運びはいつしか「中日ペース」と呼ばれ、打てないのに負ける気もしないという不思議な感覚だった。日本シリーズでは第7戦で敗れて日本一を逃したが、戦前の下馬評を覆し、強豪ソフトバンクに対して途中まで「中日ペース」に持ち込んだ。落合が8年間で作り上げたチームの凄みを改めて感じた。

落合の後任監督はミスタードラゴンズ高木守道だった。球団はファンサービス重視、OB中心の組閣で落合色の一掃をしようとしているのは明らかだった。チームは世代交代がうまくいかずいつしかBクラスの常連になっていた。落合がGMとして球団に復帰し、黄金時代を支えた谷繁が監督になった年には、また強いドラゴンズが見られると期待したが、落合は監督時代とは異なり徹底的なコスト削減を是としており、GMと監督で確執が表面化するなどチーム強化はうまくいかなかった。

 

こうして振り返ってみると、自分がファンになって3年目でリーグ優勝したこともあり、優勝争いは当たり前という感覚は間違いなくあった。99年に優勝してからは勝ちきれないチームにもどかしく思っていたこともあり、その何かが足りないチームを常勝軍団に鍛え上げた落合に対しては救世主の様にも感じていた。落合政権後半は「常勝」に加えて「フレッシュさ」も求めていた時期もあったが、その後の暗黒期で「常勝」を失って落合監督のすごさを改めて感じた。やはり自分は「勝つことが最大のファンサービス」という落合の理念にかなり共感しているのだと思う。第2次星野→山田→落合時代は投手力を中心としたチーム作りで、安定して上位に入っていた時代であり、中日という球団は元々はそのような安定感のあるチームではない。"恐竜打線"を前面に押し出し、不確実性がありつつも勝つときは派手な野球をしていた中日を応援していたファンとは中日ドラゴンズに求めるものが若干異なるのかもしれない。

 

強いドラゴンズが弱体化していく過程で、気が付いたことがいくつかある。

1つ目は中日新聞という親会社にはプロ野球球団にかけられる金はほとんどないということだ。

星野は巨人に負けじと積極的な補強をしていたし、落合時代も主力選手の年俸は高額な方であったが、本来の中日新聞社は金のかかるプロ野球球団に潤沢な資金を出せる企業では決してないと思う。いくら大手企業で中部地方を牛耳っている新聞社とはいえ、業態を考えると成長の見込める企業でもないし、経営も決して楽ではないだろう。落合が監督のクビを切られた理由も落合がGMに就任した理由も球団にかかるコストを削減するためだった。当然の話ではあるが、基本的には球団は独立して採算を取れるような、身の丈に合った経営が求められているのだろう。

2つ目は常勝チームを作るのには金がかかる、ということだ。

97年から2012年までの16年間で、中日がBクラスに落ちたのは2回しかない。そのうち2002年から11年連続でAクラスになっている。同時期(97年以降)の巨人でも10年連続が最長なことを考えると誇るべき数字だと思う。これは球団から補強費を引き出すのがうまく、毎年のようにFA戦線に参戦していた星野と、全権を与えられ、裏方スタッフも含め必要な人件費には糸目をつけなかった落合の功績に他ならないと思う。星野や巨人に対して、子供のころは「金にモノを言わせて」いると感じていたが、必要な補強に十分な金をかけることは、常勝チームを作るために避けては通れないことであることは、今ならよくわかる。

3つ目は中日球団は金がかかる常勝チームを望んでいない、ということだ。

「嫌われた監督」に次のような記載がある

「十年に一度くらい優勝すれば、名古屋のファンはそれを肴にして次の歓喜を待つことができる。ただ、次こそは次こそはと、歓喜を夢想できればそれで幸せではないかという思いがどこかにあった」

上記は落合監督時代に打撃コーチを務めた宇野勝の回想だが、多くの球団幹部は同じような考えを持っているのではないだろうか。「嫌われた監督」にも記載があったが、星野以降の中日監督の年俸は優勝やAクラス入りを達成すると、その度に額が上がるようになっていたらしい。常勝チームであれば破綻するような、裏を返せば定期的にBクラスに落ちて監督が交代することを前提とした条件にも見受けられる。

親会社が新聞社であることを考えると、試合やペナントレースが盛り上がって新聞やチケットが多く売れることが一番好ましい。そのためには必ずしも結末が「勝利」である必要はなく、その過程にある物語性やロマンの方が重視されているのではないだろうか。物語を盛り上げるためには「敗北」するシーズンも必要だし、たまの「勝利」の方が盛り上がりが大きい、という思想なのだろう。

 

昨年オフの契約更改の席で、福谷に「この球団にビジョンはあるのか」と問われて「今はない」と球団が答えたことが話題になった。通常の民間企業であれば経営理念や経営計画があり、それに沿って社員全員が同じ方向を向いて自分の仕事に邁進するのがあるべき姿だが、中日球団にはその方向性が無いということになる。黒字経営が大前提にあるとして、強かった時代の様に毎年日本一を目指していくのか、それとも「物語性」「派手さ」を重視して、極端な言い方をすれば勝利は二の次というスタンスでチーム作りをするのか、今一度再考する必要があるのではないだろうか(後者であるとはっきり言われたらファンをやめてしまうかもしれないが)。そしてかつて落合監督が要求したプロフェッショナルであるという意識を、現場のユニホーム組、球団スタッフ、球団幹部一人ひとりが持ち、球団一丸となって同じ目標に向かって邁進するチームであってほしいと感じた。

ロボットの様な食生活

このご時世に出張で和歌山県に来ている。しかも首都圏・千葉からの移動である。

県民の皆様方におかれましては、到着してからすでに2週間以上経過しているので、時効ということで見逃してほしい(PCR検査の陰性確認もしてから来ている)。

出張中に意外と気を遣うのが食事。外食ばかりでは栄養バランスも悪い。レオパレス滞在なので自炊もできなくはないが、今さらレオパレスの貧相なキッチンで自炊をする気にもならない。結局、炊飯器と電気ケトルのみ持参してレンチンと外食の合わせ技でしのぐことにした。

当初は限られた手段の中で、「味」「栄養」「コスト」「満足感」を兼ね備えた食生活を送ろうと考えたものの、単身で自炊せずに栄養バランスを整えようとすると冷食や総菜を何種類もそろえる必要があるし、1日で消費しきれないため冷蔵庫で残りを管理するのも面倒。外食でバランスの良さを意識するとコストもかさむ (出張手当が出るのでそこまで気にしなくても良いが、意にそぐわない場所に長期滞在させられているので金くらいは稼いでおきたい)。

最終的に以下の様なルーティーンに落ち着いた。

~平日~

<朝> 牛丼(並or大)+生野菜(小)

<昼> カロリーメイト(4本)

<夜> ワタミの宅食+ご飯(半合)

~休日~

<朝> 冷凍うどん

<昼> 外食

<夜> 外食

平日は朝から牛丼を食べてエネルギーを補給する。朝定食という選択肢もあるが、おかずの種類が多いだけで、栄養バランスがすごく良いわけではない(と思う)ため、栄養のことは考えずに割り切って牛丼を選ぶ。多少罪悪感があるので生野菜(小)が加わる。結果的に週5~6食を牛丼屋で摂取することになり、「みんなの食卓でありたい」という牛丼屋の願望成就をサポートする形になっている。

昼は朝蓄えたエネルギーの貯金があるので、夜までのつなぎとしてカロリーメイト(4本)でしのぐ。当初はコンビニおにぎり2個だったが、毎朝コンビニに行くのが面倒なことと、おにぎり2個よりカロリーメイト(4本)の方が安くて栄養がある(ような気がする)ので、この結論に至った。

夜はワタミの冷凍宅食弁当を利用している。当初はスーパーの総菜とキャベツ千切りをご飯にのせて食べていたが、スーパーの総菜は基本的に2人前以上を想定している量のため、どことなく食べ過ぎ感が否めない。ワタミの宅食は栄養士がメニューを作成しており、味も冷食にしてはおいしい。カロリーはおかずのみで350kcal程度で、米を合わせても若干1日の必要カロリーに足りない気もするが、夕飯後は特にエネルギーも消費しないので、あまり苦痛にはならない。満足感はあまりないが、翌日の朝に牛丼を食べることで何となく物足りなさがごまかされる。唯一引っかかるのがブラック企業ワタミに金を落としてよいのか、という倫理面の問題だが、人は自分が一番かわいいものなので結局安さや便利さに負けてしまう。

休日は平日のつまらない食生活の鬱憤を晴らすかの如く、外食で食べたいものを食べる。和歌山県は美味しいものが多いが、今回は車を持ってきていないため徒歩圏内で孤独のグルメをするしかない。ただ、近所に小鉢が充実している定食を出す店があり、週に1度はそこで食事を摂ることで満足感を得ている。

この生活を続けたことで、自炊をしないことにより水仕事が減り手肌荒れが改善した。また、自炊や外食に行く時間、献立を考える時間が減り、空いた時間で読書や競馬予想が捗っている(馬券は当たらないが)。ただ、この生活も半年以上続くときついので、4か月限定と決まっている今回の出張だからこそできることなのかもしれない。早く帰りたい。

松岡正海と私

天皇賞(春)の興奮冷めやらぬ中、香港QE2世Cにウインブライトと松岡正海が参戦した。「ウインブライトは中山専用機じゃないのか」「鞍上松岡で大丈夫なのか」…そんな雑音を振り払い、渋い人馬が海外の強豪を退けて堂々の優勝を飾った。

松岡にとっては実に10年ぶりのG1制覇だ。前回のG1勝利はマイネルキッツで制した天皇賞(春)。丸10年を経て、あの日と変わらないガッツポーズを見て、胸に熱いものがこみ上げてきた。

僕はマイネルキッツ春天から10年間松岡信者を続けている。競馬を始めたのが2009年。ビギナーズラックとは無縁の数か月を過ごす中で、初めて万馬券を持ってきてくれたのがマイネルキッツ松岡正海だった。軽そうな見た目で、年も自分より3つ年上なだけ。にもかかわらず、マイネルキッツの長距離適性を見抜き、春天に出すことを調教師に進言して見事結果を出すというしっかりとした一面も持つ。そのギャップに惹かれてしまったのだ。

今日は僕の10年間の松岡信者生活の中で、心にぐっと来た出来事を僭越ながら選ばせてもらった。

 

 

2009年 天皇賞(春) 優勝 マイネルキッツ

松岡と言えばこのレース。経済コースを取りながら、最後の直線のラチが切れたところで加速。これ以上ない騎乗で12番人気の低評価を覆した。レース後のインタビューでは開始早々「チョリース」を繰り出し、「G1で勝ったらインタビューでチョリースをする」という木下優樹菜との約束を守る律儀な一面も見せた。 


2009 天皇賞(春)

 

2010年 天皇賞(春) 2着 マイネルキッツ

昨年の覇者として相手を迎え撃つ立場となった松岡とマイネルキッツ。このレースで松岡は今までの後方待機策をやめて先行策を取る。前目でしっかりと折り合い、4角先頭で最後の直線に入る王者の競馬。最後の最後にウィリアムズが騎乗するジャガーメイルに差されるも、その堂々たる走りは多くの松岡信者を熱くした。ちなみに、ウィリアムズが尊敬する日本人騎手は松岡らしい。彼もまた、松岡信者の1人なのだ。


2010 天皇賞(春)

 

2010年 新潟2歳S 優勝 マイネイサベル、2着 マイネルラクリマ

1着マイネイサベルは松岡の低迷期序盤を支えた渋いお手馬。切れのある差し脚で何度も穴を空け、松岡信者を歓喜させた。最大のG1チャンスだった2013年のヴィクトリアマイルでは、肝心の松岡がまさかの騎乗停止で乗れず無念の3着。2着のマイネルラクリマ石橋脩騎乗だが、後に鞍上松岡で京都金杯を勝つ。これで松岡は前年の中山金杯コスモファントムと併せて東西金杯を制し、金杯男として存在感を示した。この年の新潟2歳Sは松岡信者には忘れられないレースの1つである。

 

松岡と骨折

松岡の長い低迷は落馬負傷がきっかけと言えなくもない。2011年は牝馬サウンドオブハート、牡馬でアルフレードというクラシックを狙えるお手馬がいながら、骨折で朝日杯と阪神JFに騎乗できなかった。朝日杯を鞍上ウィリアムズで優勝したアルフレードを松岡信者は複雑な心境で見つめるほかなかった。

<松岡の落馬・骨折>

2011年8月 落馬 左腓骨骨折 1週間離脱

2011年11月 落馬 右鎖骨骨折 4週間離脱

2012年1月 落馬 左足関節内果骨折 6週間離脱

2017年7月 落馬 左仙腸関節骨折、骨盤骨折 4週間離脱

2017年9月 落馬 異常なし(復帰直後に落馬)

2019年1月 馬に蹴られる 右尺骨骨折 4週間離脱

 

2013年 フェブラリーS 2着 エスポワールシチー

G1を9勝した名馬エスポワールシチー佐藤哲三のお手馬として有名だが、騎乗できない時は彼が信頼を置く松岡が手綱を取っていたのは知る人ぞ知るエピソード。この年のフェブラリーSは前年末に哲三が落馬負傷し、代役が手綱を取った前2走も大敗で人気もがた落ち。そんな中で松岡は、佐藤哲三を彷彿とさせる頭が低く尻が高く上がる騎乗フォームできれいに先行。最後はグレープブランデーに差されるもエスポ復活を印象付ける2着。哲三ファンをも熱くさせた。


2013 フェブラリーS

 

2014年 日本ダービー 3着 マイネルフロスト

松岡の全盛期はマイネル軍団の主戦騎手として君臨していたが、2012年頃から柴田大知にその地位を追われるようになる。2014年もマイネルの期待馬の依頼はほぼ来ない状況だったが、ダービーで毎日杯勝ち馬・マイネルフロストの騎乗依頼が来た。レースでは内枠を生かして経済コースを回り、最後の直線で前にいたトーセンスターダムが寄れてできたスペースを突いて加速。1,2着馬には差をつけられたが堂々の3着。単勝オッズ100倍越えの低評価を覆す激走に、松岡信者の鬱憤も少しは晴れたのではないだろうか。


2014 日本ダービー

 

2015年 アーリントンC 優勝 ヤングマンパワー、2016年 マーチS 優勝 ショウナンアポロン

松岡は2005年にウイングランツダイヤモンドSを優勝してから15年連続で重賞を勝っている。ほとんどがマイネル・コスモ・ウインの馬だが、2015年と2016年を単勝20倍を超えるこの2頭で記録を繋いでいるのは圧巻の一言。マイネイサベル引退からウインブライトデビューまでの、重賞を狙えるお手馬がほとんどいないこの時期を支えたこの2頭も松岡信者にとっては思い入れのある馬だ。

 

2016年 皐月賞 優勝 ディーマジェスティ

皐月賞を制したディーマジェスティ。デビュー前から調教をつけていたのは松岡で、ディーマジェスティの素質をいち早く見抜いた松岡は「これはダービーを目指せるだけの馬。キャプテンが乗ってくれ」と蛯名に薦めたという。勝負の世界に生きるものとして甘い、という意見もあるかもしれない。だが僕はこのエピソードに松岡らしさを感じてしまい、改めて松岡に惚れこんでしまった。惜しくもダービーを取ることができなかったのは本当に残念だ。

 

2018年 総武S 2着 リーゼントロック

松岡はベイスターズファンで有名で、始球式にも登場したことがある。そんな彼にとって、ベイスターズのレジェンド・三浦大輔の持ち馬に騎乗するのは格別な思いがあるのではないだろうか。2018年の総武Sでは1年以上勝利から見放され、OPでは通用しないとみなされたのか、10番人気に甘んじていた。レースではすんなり先行して2番手につけると、直線で逃げ馬を交わして先頭に立つ。センチュリオンの猛追を首差しのげず2着となったが、このレースをきっかけに復活し、OPや重賞でも馬券に絡む活躍を見せるようになる。

 

2019年 中山記念 優勝 ウインブライト

中山金杯をウインブライトで優勝し、幸先の良いスタートを切った直後、ぞっとするニュースが飛び込んできた。松岡がパドックで馬に蹴られて骨折したというのである。松岡が手塩にかけてきたブライトがようやく本格化、これから中山記念をステップに春のG1獲りへ…そんな夢が打ち砕かれそうになる中で、松岡の出した答えは手術をして1か月で復帰、中山記念もウインブライトの手綱を取る、という選択だった。G1馬が5頭そろい、相手も金杯から強化。松岡も病み上がり。マイナス要素を上げればきりがない中で、堂々の優勝。松岡を信じてよかった。心からそう感じた。


2019/02/24 中山11R 第93回 中山記念(GⅡ)【ウインブライト】

 

とりあえずこの10年間の出来事を書き連ねてみたが、書くほどのことではないことも含め、松岡には常に熱い気持ちをもらっている。10年ぶりにG1も勝った。次はグランプリ、クラシック、そしてダービー制覇だ。

アボカドのなめろう (メキシコ風)

メキシコ料理のワカモレにヒントを得て、よりごはんに合うように改良すべく味噌を使ったワカモレ、要はアボカドのなめろう(メキシコ風)を作りました。

 

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アボカドにライムを絞る、This is Mexico. 変色を防ぐ効果があります。

 

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水にさらしたタマネギとトマトを投入。

 

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ライム絞ったのに、赤味噌を入れてあえて変色させていく攻めのスタイル。

 

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すでに味噌によって変色しているので時すでに遅しですが、アボカドの種を入れると変色しにくくなります。

 

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ごはんには壊滅的に合いませんでした。 

This is Mexicoとか言っといてこんなこと言うのもどうかと思いますが、ごはんに合わない全ての元凶はライムだということが判明しました。アボカドはワサビ醤油が一番。

思わぬ伏兵により一人フードファイトが始まってしまったはなし

今日の昼は最近見つけた安くてそこそこいい感じのレストランに行きました。この地方特有のCajun料理が食べられる店で、店員さんが全盛期のt.A.T.uに似ていてかわいいので毎週通っています。

Cajun料理はアメリカと聞いて想像される、ステーキ!ピザ!ハンバーガー!といった見るからにヤンキーなものとは一線を画しており、米やシーフードを多用することで有名です。ザリガニやナマズ、カエルなどの淡水の仲間たちも調理された姿でご対面できます。味付けもデミグラスソースの様ないろいろな食材・スパイスが混じった味で個人的には好きな味ですが、どの料理も基本的に同じ味付けです。アメリカ人は芸が無いなと思いますが、かたや日本人の僕は1週間の半分をカレーライスで過ごしているので人のことは言えないなという自覚はあります。

そんなCajun料理のレストランで、今日のおすすめだと言わんばかりにホワイトボードに書かれている”Beef Tips”を僕の得意技のJapanese Englishでオーダー。

このBeef Tips、前回も頼んだのですが、ライスにシチューのようなものがかけられており、サイドメニューを2品選べるので野菜の供給もばっちりと、アメリカでは珍しく無難中の無難のメニューであります。(食べかけですみませんが、下記参照)

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Beef Tips on the rice(左)小豆を煮たやつ(右上)コーンマフィン(右下)コールスロー(上)

ただ、人は無難を求めつつもある程度の未知の出会いを求めるもの。最近は小説の作者やタイトル、表紙を敢えて伏せて売り場に並べることで成功している事例もあります。今回は2品選べるサイドメニューにそれを求めようと思い、唯一字が汚くて読めなかった「上から2番目のやつ」をオーダー。

おすすめされていることもあり、すぐにt.A.T.u似の店員さんが皿を運んできますが、皿の様子が明らかに前回と違う。前回は小豆を煮たものがサイドメニューでしたが、割と平坦に盛られており、走りやすそうだな、といった印象。今回のものは軽い山が二つできており、さながらトレイルランニング。テーブルに置かれた「上から2番目のやつ」を見ると、まさかのオクラ。それも軽く茶碗1杯分くらいが盛られて鎮座しておりました。(ボードもよく見たらOkraって書いてあった。)あと、写真だとあまり多く見えないんですけど、オクラに合わせてメインのほうも若干増量されていました。

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「うわあ なんだか凄いことになっちゃったぞ」

Okraを前にして唖然としていると、カウンターに戻ったt.A.T.uがホワイトボードをいそいそと書き直し始めました。掛けなおされたそれを見たら、今まで上から2番目にあった汚い文字で書かれたOkraが消されており、「中途半端に残ったOkraが全部僕の皿に盛られたな」と全てを悟りました。

こうして思わぬ形で一人フードファイトが始まってしまったんですが、このOkraが繊維質な上にねばねばしており非常に腹にたまりなかなかの強敵。日本ではオクラを食べるとなったら湯がいて醤油を垂らしてさっぱりと食べることが多い思うんですけど、このOkraは茶碗一杯分が油で炒められており、オクラとOkraの違いをまざまざと見せつけられました。

Okraと格闘しながら「thee michelle gun elephantt.A.T.uの代わりに現れて、急きょ俺の分のOkraも食べてくれないかな…」などとは実際は思いませんでしたが、アメリカに来てから3か月間ほぼ毎日孤独のグルメですので、当然誰の助けを得ることもできずに惨敗しました。

フードファイトの本場のアメリカだけあって、ステーキの肉の量、サイドメニューの文字から染み出る雰囲気等、かなり慎重に一人フードファイトを回避してきたつもりでしたが、1度頼んだことがある、という慢心がこのような結果を招いてしまいました。Okra農家の皆さんには申し訳ない限りですが、今後1か月くらいはOkraもオクラもNo thank youです。